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カテゴリ:映画( 166 )

「タクシー運転手」

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2018年4月26日(木)

楽天地シネマズ錦糸町で「タクシー運転手 約束は海を越えて」(2017、韓国、137分)を観る。
監督 チャン・フン
出演 ソン・ガンホ(キム・マンソプ、ソウルのタクシー運転手)
   トーマス・クレッチマン(ピーター、ドイツ人記者)
   ユ・ヘジン(ファン・テスル、光州のタクシー運転手)
   リュ・ジュンヨル(ク・ジェシク、通訳の大学生)

1980年5月の光州事件を描く。ドイツ人ジャーナリスト、ユルゲン・ヒンツペーターを光州まで連れて行った実在のタクシー運転手、キム・サボクがモデルとなっている。
最後にピーターがキム・マンソプに名前を尋ねたとき、とっさにこの「キム・サボク」と仮名を言いその結果公安の目を逃れることができた。実は映画の中では仮名だが、現実には実際の名前だった。

護送車の間から覗く銃身を目にしたとき、軍隊という組織の本質を見たように思えた。軍隊や警察はいつでもどこでも同じということを忘れてはいけない。昨日救助した人に今日は銃を向けるかもしれない。

映画的には、大事な場面で余計な言葉がなかったことがいい。
一方、あれっ?と思ったのは、光州から脱出するとき検問でトランクの中のソウルのナンバープレートが見つかったのに不問にされたこと。このときの将校は市民に同情的だったのだろうか。







  












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by pprivateeye | 2018-04-30 04:12 | 映画 | Comments(0)

都写美はずいぶん久しぶりだった。

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2018年4月11日(水)

東京都写真美術館で映画を観る。スペイン生まれでメキシコに帰化した、ルイス・ブニュエル監督特集。観たのは「皆殺しの天使」(1962、メキシコ)と「ビリディアナ」(1961、スペイン、メキシコ)。
「皆殺しの天使」はシュルリアリスム的な内容。ブルジョワジーたちの晩餐が終わり、さて帰ろうという段階になっても誰も帰らずに翌朝を迎えてしまう。前夜団らんした部屋から誰も出られないということに気付いて次第に狂的になっていく。全員がパニックになってもおかしくない状況だが、それを押し留めているのは自分たちは上流階級の人間だという矜持だった。あるきっかけでその魔法のような状況は解決されるのだが、今度は教会の中で同じ状態になってしまう。背筋が冷っとするような怖さがある。
「ビリディアナ」は主人公であるビリディアナの信仰が打ち砕かれてしまう。修道院から一時叔父の邸に帰省していた主人公はその叔父からレイプされそうになる。叔父は止まったものの、翌日自殺してしまい、修道院に帰ろうしていたビリディアナは邸に戻る。邸では浮浪者などを集めて食事や仕事、休む場所などの施しを与える。ある日、邸のメンバーが外出しているときにその浮浪者たちが乱痴気騒ぎを起こしてしまう。その途中で、レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」をパロディ化するのには笑えた。外出から戻ったビリディアナは今度は浮浪者の一人に襲われる。未遂とはいえ二度のレイプに会い、宗教心から行っていた施しの成果は灰燼に帰してしまい、生きる目的を失ってしまう。信仰が否定されたような内容は、スペインやイタリアで上映禁止となったのも肯ける。


◆清里フォトアートミュージアム収蔵作品展「原点を、永遠に。―2018―」前期<歴史篇>、東京都写真美術館 B1
写真史に名前を残すような作家と、清里フォトアートミュージアムがヤングポートフォリオで購入した作家たちの作品がびっしりと展示されている。どれも個性のある作品でお腹いっぱいになるのは必然。そのなかで特に面白いと思ったのは細江英公「鎌鼬」だ。同シリーズ最初の展示の作品だと思うが、銀が浮いてきて一部が反射していた。プリントも生き物だと思えた。また、アービング・ペンが撮影したマルセル・デュシャンのポートレートはプラチナ・プリントで、撮影者、被写体、撮影方法(二枚の壁に囲まれた狭い場所)、プリントとどれも興味深いものだ。


◆森まき写真展「宇宙服の中から」、アメリカ橋ギャラリー
WSの写真仲間の展示。タイトルの宇宙服は各個人がそれぞれ独立した一個の存在である、というような意味らしい。写真は作者が感じた瞬間を捉えたもので、写っているものに意味はない。ただし見る側はその写真から独自のものを読み取ってしまう。そんな作品の中では薄い長方形のものが水平にある作品と、灰色の岩のようなオブジェに見える作品がいいなと思った。







  




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by pprivateeye | 2018-04-14 01:46 | 映画 | Comments(0)

マリリン・モンローのニコンF

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2018年2月21日(水)

楽天地シネマズ錦糸町で「バグダッド・カフェ ニュー・ディレクターズ・カット版」を観る。<午前十時の映画祭8>
この映画を観るのは2回目だ。4年前に観た感想をここに書いているが、ブレンダの怒りや警官の知性など、笑ってしまうくらい今回観た感想も同じだった。付け加えるとすればジャスミンもブレンダも亭主がいいかげんなこと。特にブレンダの亭主サルは尻にひかれてかわいそうなくらいで、追い出されても遠くからブレンダを見ているのはイジラシイ。コーヒーに関してはアメリカン、つまり薄いコーヒーを揶揄しているようで面白い(この映画は西ドイツの制作)。映画としてはブレンダが怒りまくっている前半がいい。後半になるとちょっとハッピーエンド過ぎるなあ。サルもマジック・ショウの場の隅にいるのだが、まだ不安な表情をしていて笑える。


◆monochrome XVI 展「Landscape」、gallery E・M 西麻布
恒例のグループ展。46名もの大人数だがその中では織作峰子さんの作品が目に留まった。豪雪地帯の雪の降る日を撮影したもので、雪という天候の重苦しさを強く感じた。そんなことをギャラリーの竹内さんと話していたら、この写真展のディレクターの永嶋さんがこの作品の凄さを詳しく解説してくれた。雪の日の露出は難しい。それにこの作品のトーンはプリントも難しいとのことだった。原直久さんの8×10からの大伸ばしの作品はいつも見入ってしまう。


◆森山大道写真展「記録35+36号」、AKIO NAGASAWA Gallery Aoyama
銀座についで青山にもAKIO NAGASAWA Galleryができた。骨董通りから少し入ったビルの2F。今回の森山大道展がオープニングのようだ。森山さんが刊行を続けている「記録」からの展示。大伸ばしの作品と、16×20のフレームに入れ固めて展示の二種類。その固まりも横位置、縦位置それぞれがまとめられていて、ある意味機械的なものだった。今回はその固まりがなぜか気になって何度も見直していた。


上記の写真はニコン100周年記念の地下鉄の中吊り広告だ。この写真をSNSにアップしたら写真仲間から巻き戻しクランクが立ってるけどなぜ?と連絡があった。最初は広告の折り目の反射かと思ったのだが、ニコンのサイトを見てなるほどと思った。そこにはこう書かれている。
「マリリン・モンロー/最後のポーズ」として知られることとなったそのセッションの中で、
マリリン・モンローはバートの愛機であるニコンのカメラを横取りし、
無邪気で愛嬌たっぷりの姿も見せている。
カメラマンはバート・スターン。この一文から撮影が終わりフィルムを取り出されたカメラをモンローが持っている、と想像できる。同じようにクランクの立ったニコンFを持った別ポーズの写真が検索で見つかるので、そのまま別のカメラで撮影したようだ。

追記:別のカメラはハッセルブラッドだった。








  




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by pprivateeye | 2018-02-26 02:37 | 映画 | Comments(0)

ヒッチコック/トリュフォー


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2017年11月16日(木)

早稲田松竹でアルフレッド・ヒッチコック特集。今年の初めに公開された「ヒッチコック/トリュフォー」と抱き合わせの形で、「裏窓」「ダイヤルMを廻せ!」「見知らぬ乗客」がそれぞれ日を変えて上映された。「ヒッチコック/トリュフォー」は公開時に観ており、「裏窓」も数回観ている。後の2作品はまだだったが、この日は「見知らぬ乗客」を観ることができた。原作は「太陽がいっぱい」や「キャロル」のパトリシア・ハイスミス。列車に乗り合わせた人物から交換殺人を持ちかけられるというもの。ヒッチコックの作品にしては意外と登場人物に感情移入できた。持ちかけられた人物がテニス・プレイヤーで相手の思うようにならないでくれ、と思っていた。テニスの試合のシーンもきちんとしたものだった。「ヒッチコック/トリュフォー」はトリュフォーがヒッチコックにインタビューした本『映画術』に基づいたもので、そのときのフィルムとか現代の映画監督へのインタビューなどで構成されている。ヒッチコックを大いにリスペクトしたものだ。





  




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by pprivateeye | 2017-11-28 22:56 | 映画 | Comments(0)

シネマヴェーラ渋谷でキートンとマルクス兄弟

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2017年10月4日(水)

新宿でモノクロ写真の展示を見た後、渋谷へ。久しぶりにシネマヴェーラ渋谷で映画を観る。ここでもモノクロだったw
・バスター・キートンの「海底王キートン」+「キートンの警官騒動」
・マルクス兄弟の「我輩はカモである」

喜劇王の冠はチャップリンにつけられるが、キートンを観たあとではチャップリンの喜劇は甘ったるく感じてしまう。キートンのナンセンスな笑いはいつも新鮮だ。

マルクス兄弟の名前は大昔に筒井康隆のエッセイで知った。名前は知ったものの作品を目にする機会はほとんどなかったのだが、実際に観てみるとそのスラップスティックな笑いは破壊的だった。特にハーポ・マルクスは狂気を感じる。あのズボンにはいったいどれだけの道具が隠されているのだろう。あのハサミの切れ味w

シネマヴェーラ渋谷や神保町シアターといった名画座が作成しているチラシは特集のスケジュールがわかるだけでなく、映画の資料としても重宝している(上の写真ね)。保存版だよ。


何度見ても楽しい鏡のシーン


それをオマージュしたドリフターズ






  




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by pprivateeye | 2017-10-07 00:47 | 映画 | Comments(0)

早稲田松竹でGodard

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2017年6月6日(火)

早稲田松竹でジャン=リュック・ゴダール監督の「はなればなれに」(1964)と「女は女である」(1961)を観る。前者は二回目かな。どちらも二人の男性が一人の女性を巡る話で、主演女優はともにアンナ・カリーナ。二作品ともどこか喜劇的な要素が含まれている。
「はなればなれに」ではアンナ・カリーナが自転車に乗っているところを俯瞰で捉えたシーンがいい。彼女は曲がり角に来る度に手を出して曲がる方向を合図している。一番面白いのはカフェでのシーンだな。席についているときに誰かが用事で立つと並びを変えたり、突然ダンスを始めたりする。上のポスターがそのシーン。
「女は女である」のジャン=ポール・ベルモンドが意外とヤサ男だった。アンナ・カリーナはジャン=クロード・ブリアリといっしょに住んでいるのだが、ケンカをして口をきかずに本の題名を示すことで言いたいことを言ったり、ベッドに入る度に足裏の埃を払うシーンなどは何度か現われて面白かった。バーのカウンターで後ろ姿の女性が振り向くとそれがジャンヌ・モローで、ベルモンドが「ジュールとジムはどうしたんだ?」と言う場面では思わずニコッとしてしまった。「ジュールとジム」はフランソワ・トリュフォー監督の「突然炎のごとく」の原題で、やはり男性二人と女性一人の話。ジャンヌ・モローがその女性だ。こういった楽屋落ち的な話が他にもいくつかあって愉快愉快。
ちなみにトリュフォーの作品では「突然炎のごとく」が一番好きで、ジャンヌ・モローがお気に入り。以前にも書いたりしているが、彼女にスタンダールの小説「パルムの僧院」に出てくるサンゼヴェリナ公爵夫人を演じてもらいたかった。何度も読んだ「パルムの僧院」では、青二才の主人公ファブリス・デル・ドンゴなんかよりもサンセヴェリナ公爵夫人のほうが断然いい。





  



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by pprivateeye | 2017-06-12 21:01 | 映画 | Comments(0)

「Don't Blink ロバート・フランクの写した時代」

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2017年5月26日(金)

ようやくBunkamuraル・シネマで「Don't Blink ロバート・フランクの写した時代」を観る。タイトルの「Don't Blink」はロバート・フランクがアドバイスに「目をしっかりと開けておけ。瞬きするなよ」と答えたことから来ている。映画自体は確かにドキュメンタリーだがそれはフランク自身についてであり、日本語の副題は的が外れている。感想を一言で言えば、ロバート・フランクの写真のような映画だった、というもの。ロビーには映画評が張り出されているがその中で写真家の石川竜一がやはり「記録的で、詩的で、写真のような映画だった。」と述べている。ドキュメンタリーとは言いながらも各カットやシーンは短く、前後との関連も薄く、次々と変わっていき、それは写真集をパラパラと行き来しながら何度も見ている感覚に似ている。そんな中でもロバート・フランクは二人の子供を亡くし、離婚もしており、一時は「The Americans」の著作権も奪われてしまうなど、波乱一杯の人生を過ごしていることが描かれている。実は映画を観ながら何度も白岡さんのことを思い浮かべていた。白岡さんは整理整頓がきちんとしていたが、フランクは物をため込んで写真も整理されているとは思えなかった。それでも写真の扱い方は似ており、何よりも二人とも写真が好きだというのがよく伝わってきた。








  




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by pprivateeye | 2017-05-28 08:47 | 映画 | Comments(0)

「乱 4K」

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2017年4月14日(金)

YEBISU GARDEN CINEMAで黒澤明監督「乱 4K」(1985年)を観る。タイトルにあるように4Kデジタル修復されたものだ。
この映画の中心は当然
シェイクスピア「リア王」であり、
秀虎役の仲代達矢と狂阿弥役のピーターがそのストーリーの真ん中にいる。他に重要な役は楓の方の原田美枝子かな。
秀虎が息子たちに裏切られ城に火をかけられてから狂気と正気を行ったり来たりするところは仲代達矢だからこそだ。アップでも引きでもその存在感を見せている。
狂阿弥役のピーターは一人色黒でおかしなことばかり言って、あれは何だ余計だというレビューをいくつか目にするが、それこそがこの映画の世界の異常さを表わしている。異常ばかりでは正常が何かわからない。狂阿弥役がおどけながら、あるいは狂言風に言っていることはすべて真実なのだが、それを理解している者は周りにはいないように思えた。
クローズアップの頻度などでその場面や役の重要さが測れるが、長男太郎(寺尾聡)はほとんど印象に残らないし、その印象の薄さが役柄(演技)となっている。次郎(根津甚八)も最初は父親秀虎をどうするかと腹心たちと相談する場面などでクローズアップで捉えられるものの、楓の方(原田)が本性を表わしてからは背後からのショットが多くなった。
楓の方が次郎の正室の末の方(宮崎美子)をどうするのかと迫る場面ではカメラは絶対に次郎の表情を映そうとしない。ちなみに宮崎美子がクローズアップで捉えられることはまったくなかった。三郎(隆大介)は「リア王」では三女コーディリアに相当するが、この映画ではさほど重きが置かれていない。
一方で、楓の方は地味な登場の仕方をするが次第にその本性を露わにしてくる。そこには秀虎に攻め滅ぼされた一族の生き残りという背景がある。これは浅井長政の三姉妹のあり得たかもしれない生き方だと思う。三姉妹の母は織田信長の妹お市であり、姉妹は豊臣秀吉や徳川秀忠に嫁いでいる。浅井長政自身も信長に滅ぼされており、三姉妹の誰かが楓の方のように振る舞ったとしてもおかしくない。このことに触れた評はまだ目にしていない。
このような見方をしてくると、合戦のスケールがすごいとかの感想をよく見るが、それは付け足しのようにしか思えなくなってくる。実際には、多くの馬が走っている中で落馬するという演技はものすごく危険だ。それが何回も何人もがやっているわけだが、物語の展開から考えると合戦が必ずしも必要とは思えなかった。城攻めのシーンでは秀虎が狂うためにだけ必要としか考えられないでもない。このあたりもう少し切り詰めていけば親子の裏切りと愛情という関係が濃くなったのではないか。ただし、超大作というわけにはいかないかもしれないが。



  



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by pprivateeye | 2017-04-19 00:49 | 映画 | Comments(0)

「アメリ」<午前十時の映画祭8>

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2017年4月13日(木)

TOHOシネマズ市川コルトンプラザで「アメリ」を観る。午前十時の映画祭8。実はこの映画を観ようかどうしようか迷っていたのだが、午前十時の映画祭に入っているということで観ることにした。感想、よかった、面白かった、いい映画だった。監督が「エイリアン4」を撮ったジャン=ピエール・ジュネで、2001年に公開されフランスに限らず日本でもブームになった、ということはまったく関係なしに楽しめたし、意外に深みのある内容だった。なによりもテンポがよく、色もヴィヴィッドで、人間関係がメインというフランス映画そのものという印象。ビデオやTVのシーンがいくつも出てきて、わかる人にはわかるという感じだ。トリュフォー「突然炎のごとく」のジャンヌ・モローたちが橋を駆けているシーンに気付いたときは、おッと思った。ツール・ド・フランスで馬が選手たちといっしょに走っているTVのシーンもあれば、隣のアパートメントの老人が模写している絵画はルノワール「舟遊びをする人びとの昼食」だ。先行する作品へのオマージュやパロディが随所にみられた。極めつけは最後のシーンだ。恋が実ってアメリが彼のバイクの後ろに乗って街中を走る場面は「ローマの休日」そのもの。主人公たちの笑顔がそのまま観ているものに移ってしまう。





  



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by pprivateeye | 2017-04-18 19:34 | 映画 | Comments(0)

早稲田松竹でヴィスコンティ

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2017年4月12日(水)

早稲田松竹でヴィスコンティ監督の「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年)と「揺れる大地」(1948年)を観る。前者は1月に新宿武蔵野館で観て二度目だ。ともにモノクロで、ネオレアリズモの作品に数えられている。他にはロッセリーニやデ・シーカの名前がよくあがる。
たまたまBookoffで見つけた『ヴィスコンティ 壮麗なる虚無のイマージュ』(若菜薫、鳥影社)の分析が興味深い。主題、物語、映像話法、映像主題といった切り口で各作品を分析している。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」については後ろ姿の表現性ということを述べている。映画の冒頭、主人公ジーノがトラックの荷台から降りて食堂に入っていくまで主人公の顔が映ることはない。また、大道芸人スパーニャがジーノを旅に誘いに来たが果たせず去っていくときにもその後ろ姿がしっかりと描かれている。こういった細かな箇所というのはよほど映画慣れしていないと見逃してしまうものだ。それについて書かれたものを読み、再度観るときにはストーリーはわかっているのでより細部に入っていける。映画は二度観よ、ってかw
「揺れる大地」は初めて観る作品だ。一言でいえば、漁師が搾取から逃れようとしたが失敗する、という話になる。ヴィスコンティの大きなテーマとして家族の崩壊があるが、それが苦い気持ちとともに描かれている。主人公の漁師ウントーニは独立に失敗して再び仲買人に雇われる。その際、激しい嘲笑をあびるが一切表情は変えず何もしゃべらない。それは屈辱からではなく、信念を持ち誇りを失っていないからだ。先にあげた書籍では、そこには「山猫」のサリーナ公爵と同じ精神的貴族を読み取っている。



  

   



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by pprivateeye | 2017-04-17 23:59 | 映画 | Comments(0)