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<午前十時の映画祭>

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1月4日(金)

みゆき座で「真夜中のカーボーイ」を観る。二回目だ。
この映画館は座席が前と後ろに分かれている。普段は後ろ側の席が埋まり前側は数えるほどしか観客がいないのだが、今日は反対に後ろ側で観ていた人はずいぶんと少なかった。たぶんこれは映画館で映画を観慣れた人が多かったためだと思う。家庭のTVで観るのと同じ感覚の人が後ろ側に座るのではないだろうか。自分は字幕がきちんと読めて左右の端まで目が届くE列F列あたりが好み。
いつもの映画評(詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記))を読んだら面白いことが書かれていた。

主役はジョン・ヴォイドやダスティン・ホフマンではなく、彼らの周りを通り過ぎていく「無名の人々」ではないかというのだ。その人たちは「いま」「ここ」にいる人間で、「夢」を語ることはない。
「夢」を語ることは「いつか」「どこか」を語ることで、ジョン・ヴォイドにとってはNYで金持ち女性のヒモになること、ダスティン・ホフマンにとってはマイアミでリッチな生活を送ることだった。
しかし、彼らの夢と挫折は「狂言回し」で、本当の「主役」は「いま」「ここ」に生きている「人間」、「夢」を語らない人間だ。
だからそういう視点で見ると、ある個人の「夢」にそってその行動を描いているのではなく、「いま」「ここ」に何があり何が動いているかを記録した「ドキュメンタリー」である、といった内容だ。

これはすごく新鮮な見方だった。
普通はジョン・ヴォイドの頼りなさ(純情さ?)やダスティン・ホフマンのしたたかさが目に付きそれに共感することが多いと思う。
しかし、彼らは実際に描こうとしたものの反対側にいるというこの見方は、映画を観ること・語ることの面白さやその広がりを教えてくれる。

ところで写真をやっている人はここに出てきた「いま」「ここ」という言葉が気になるのではないか。
「いま」「ここ」は写真を撮る上でのベースのようなものとして考えられることが多い。
ということは写真は「夢」を語らない?
そうかなとも思うし、写真は「かつてあったもの」と述べた人もいたし、「いま」「ここ」の側にいることはドライなことだなとも思う。



・中藤毅彦写真展「HOKKAIDO」、ZEN FOTO GALLERY
展示は夏と冬に分けられ、額もシンメトリーに掛けられていた。
中藤さんはサハリンとは少し違うと言っていたが、自分としては地続き的なものに感じられた。
この「北」のシリーズはキューバよりも好きかもしれない。
by pprivateeye | 2013-01-06 21:08 | 映画

写真について、極私的な、 あれやこれや


by pprivateeye