シャーロット・コットン セミナー Day 2
2012年 10月 03日
9月24日(月)
東京ミッドタウンでシャーロット・コットンのセミナー2日目。今回は横浜美術館の天野太郎さんとの対談。天野さんが彼女について「カジュアルな人、信念を曲げない人」と言っていた。
そのときのノートから。
「写真はなぜ現代アートになりえたのか?」
天野(以下、A)アート? 釈然としない。
コットン(以下、C)現代美術は定義が変わっていく。写真の概念が発生したのは1830年代まで遡る。1851年のロンドン万博で写真が展示され、記録ともう一方で芸術性が表れている。
この20年間は商業主義と実験精神が対立する形で、歴史の潮流のなかにある。
A ロマン主義のなかにモダニズムの芽生えがある。それは日本も同じ。世界同時多発的に近代の準備がなされた(帝国主義も含まれる)。
写真というフォーマットに入れてしまう。美術館の共犯関係。
19世紀、ブルジョア階級と写真がつながる。カメラを所有できたのは裕福な階級ということ。たとえば名取洋之助、福原信三たち。
ダゲレオタイプはこっそりと見るもの。ポルノのマーケット。
現在、ファミリーアルバムを見ている人は少ない。みんなスマホやPCで見ている。
C 「プリントされている」ということも定義としてありうる。
A 美術館、19世紀、展示されるための壁。モノとしての絵画。写真も同様。
「次世代の作家たちが築きつつある新たな写真表現とは?」
C 新しい人たちは出てきているのか。
A ブランニューなもの、ものすごく感動したもの、びっくりしたものというのはあまりない。
C この2~3年、足をとられているというフラストレーションがある。本来の生み出すということではなく、瑣末なことに捕らわれている。
アナログとデジタル、両立できる、選択できる。
A 「写真」とは何を指しているのか、注意が必要。美術館で目にするものなのか、すべての写真なのか。
銀塩は果てしなく工芸作品になってきている。ベンヤミンのアウラを獲得した。デジタル作品に対して。
1万ドル以上じゃないとマーケットが動かない。
写真のありようがどのような言説のなかで生み出されてきたのかに注意が必要。
C マーケットは何の役にも立たなかった。切り捨てていい。
「写真表現における変化に美術館、キュレーター、批評家たちは追いついているか?」
A 追いついていない。
マネの「サンザール駅」はスナップショット的。写真の決定的瞬間に先行している。
C 新世代の表現者の任務。写真は戦いではなくアート。
A 写真はテキストがないとホームレス。しかし、現代美術の写真はそれを気にしない。グルスキー、ビュスタモント、トーマス・シュトゥルースたち。
C コマーシャル・フォトはビッグネームが中心。コンテンポラリーアートの写真も同じ。結局、マーケットの問題。
A ティルマンズは最初、モノから逃れたいと言っていた。だからピン留めの展示をした。いま、額に入って高額。モノとしてのフェチズム。
C 90年代以降、写真はプリントから逃れられない。
A 10年も経てば変わってしまうようなものはコレクションしたくない。
C 何を、どうやって、なぜ作っているのか、意識的である。
A 写真の存在が前提。肉体化されている。21世紀の視覚体験。写真の持つ視覚性が別のメディアを通して表れている。