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日食はWEBで見た(笑)

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5月21日(月)

朝の金環日食は雲が厚くて見ることができず。仕方がないのでWEBでの中継を見る。
今回の日食の写真はみんなが撮っていると思うけれど、Photoshopで加工してもそんなに変わらないと思うので、これこそ署名が必要だと秘かに思っている。


武蔵野美術大学で開催されている「大辻清司 フォトアーカイブ 写真家と同時代芸術の軌跡 1940-1980」展を見に行く。
ムサビは遠い。感覚的には横浜より遠かった。
しかし、大学というところはまったくフリーパスで入れるのね。不用心そのものだ。大学構内で会うのも学生だから特に咎められるようなこともない。このゆるゆるな感じはいいな。

展示は大辻自身が最初に手作りしたアルバムから始まる。この実物は手に取って見ることはできず、中身はiPadで見るようになっている。
気付いたら最初の展示からしばらく高梨豊さんと並んで見ていた。高梨さんは大日方さんが声をかけていなくなる。他には飯田鉄さん、湊雅博さんと顔を合わせる。帰りがけには大西みつぐさんを見かける。写真仲間のI星さんとも会う。
大学構内は写真に撮りたいところがいろいろある。3階展示室前で撮っていたら撮影禁止と注意されてしまう。

展示作品そのものは以前の松濤美術館のときと大差ない。大辻清司は作品作家としてよりも実験的な試みの比重が高いので、まとまった作品は意外と少ない。トークイベントでも畠山さんが思うアーティスト像とは異なっていると言っていた。
スライドでの展示がいくつもあるので、時間がかかり結構見づらい。作品を見せるというよりも、写真活動を見せるという構成だから仕方がないのかもしれない。
ほほうと思ったのは、先日亡くなった石元泰博が路上で4×5を使って撮影している様子を撮ったものがあったことだ。

トークイベントは高梨豊、畠山直哉、大日方欣一というメンバー。
以下、ノートの箇条書きを記載。
・「はじまりの写真」、最初にやってしまった写真が重要という考えを持っていた。
・ロバート・フランク、リチャード・アベドンと同世代。第二次大戦前に20歳を迎えている。
・「オブジェ」という考え。ここから作品を作っていった。1949年「いたましき物体」
・1952年「新宿・夜」は都市の最下層の匂いがする。黒澤明の「酔いどれ天使」のような世界。
・高梨さんは1950年代末に大辻清司と会う。
・高梨さんの写真について他の人とは違う反応だった。カテゴリーからはみ出たほうがいい、それを大切にしたほうがいい。
・写真が生(なま)なのはよくない、写真に考え(感情)が生で出ているのはよくない。写真を殺す必要がある。
・写真を殺すとは、自分のほうに引き寄せること。
・畠山さんは1978年に筑波大学に入り、基礎として写真の実習を受ける。
・写真だけでなくデザイン全般に対する知識、教養が素晴らしかった。間口が広く(前衛芸術etc.)、学生に人気があった。
・写真史の講義ではリー・フリードランダーを買っていた。
・大辻清司自身の写真を学生に見せることはなかった。
・課題、あるいは自由に撮ってプリントし、それをテーブルに広げて意見を言うというやり方。
・テーマを決めてどれだけヴァリエーションを広げられるか、どれだけの種類の写真ができるか。
・一度「リンゴ」というテーマが出たが、2種類くらいしか撮れなかった。畠山さん、テーマがつまらないからと応えてしまったことも。
・いまだあれだけ写真について根本的なことを語る写真家に会ったことがない。
・「なぜか」という問いを常に持っている。面白い、きれいという発言に対して「どうして?」と聞いてくる。
・どうして面白い写真とそうでないものがあると思うのか。それは自分だけのことなのか、それとも他のみんなもそうなのか、etc.
・1987年「ライムワークス」をツァイトで展示。「張りぼてだね」と言われて落ち込んだことがある。しかし、そのことをすっかり忘れていた。
・何か新しいことをやったとき、大辻さんなら何と言うか、ということを亡くなった後でも思っていた。
・高梨さんは芸能人のポートレート「お疲れさま」を出したとき、お慰みと言われた。それは違うだろうという示唆、ヒントだったと思う。
・高梨さんが畠山さんを評して、大辻さんが考えていたような写真家が畠山さん、観念の鉄骨のような写真家だと思う。
・個々の作品よりも、写真に向かう姿勢(精神性)のほうが大きい人だった。
・『写真ノート』は写真家のバイブルだと思う(高梨さん)。
by pprivateeye | 2012-05-26 19:50

写真について、極私的な、 あれやこれや


by pprivateeye