柴田敏雄「ランドスケープ」
2008年 12月 16日
カラーとモノクロの作品が分けて展示されているだけで、鈴木理策のときのように演出めいたものはほとんどない。
この展示では作品に撮影場所や時期は明示されていない。それらはパンフレットに作品リストとして一括してある。
個々の作品が勝負、という感じだ。
ダムや山崩れの補修個所などの人工物と、水の流れや木々、草などの自然が共生している、互いに溶け込んでいる、というふうに見えた。
光り(反射や輝いているもの)を撮ったのは少ない。緻密な画面構成で見せている。
これは直接的な抒情の排除につながり、単純な感動ではなく、「見ること」を強いてくる。
そして、その強制が心地よい。
ある人が以前に書いていたが、画面の中に見なくていい場所が無いのだ。
作家の言葉を見聞きする機会がほとんどないので、キャプションをいくつか抜き書きしてきた。
モノクロの時は現実感が出ないようにしていました。虚構の世界というか別世界を写し出す
ようにしていました。しかし、カラーは現実から離れられません。けれど、カラーでもモノク
ロでも一貫して撮影するテーマは同じです。
不特定な世界、しかし、よく見ることによって初めてその地域性などがうっすらと見えてく
る、そんな写真を目指していました。
繰り返し展開される土木工事は、アート・シーンにおける、規模の大きな造形行為のように
も見えます。イメージを定着する手法としては景色のなかの通常排除されるべき人工物を
あえて外さず、インフラストラクチャーなどのありようから時代を反映させる方法です。自分
の視線がさほど都市に向いていないのは、それ以外の場所のほうが、自然と人工物の対
比が際立っていてわかりやすいという理由です。建築家の作品である建築はそれ自体見
られることを前提にしているわけです。また都市にありがちなトレンドや風俗的でダイレクト
な眺めではなく、もっとアベレージな時代性というか婉曲的な時代表現が好きです。また都
会から外に出てゆく喜びというのが制作を続ける大きなモチベーションとしてあります。