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渡部さとる×タカザワケンジ

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2017年1月13日(金)

ギャラリー冬青で開催されている渡部さとる写真展「demain 2017」に合わせて、渡部さんと写真評論家のタカザワケンジさんとのギャラリートークショーが行われ、それに参加してきた。
タカザワさんが現代写真の流れとこれまでの渡部さんの写真集とをリンクさせる形で話を進めていったので、聴いている側としては現代における写真のあり方について講義を受講しているようでもあり、系統的で大変わかりやすかった。最近では稀に見る、いいギャラリートークだった。
以下はそのときのメモをそのまま転記したもの。話が飛んでいたり、話された言葉そのものではないなどご了承ください。

タカザワ(以下T): 今回の『demain』は、転換点になるような写真集だ。
渡部(以下W): 最終ゴールを設定していない。定型のものではない。例えれば、冷蔵庫にある材料を使って料理をしている感じ。特捜版はアルバムを作る感覚。
T : 自身の率直な言葉。ファウンディッド・フォトの流れに対する批評的な考えがある。
W : 何でも入る、入れることができる。ズレ、揺れ、解体、再構築といったこと。屋久島では古い写真を意図的に求めていた。連続的から並列的な物語に変化。
T : 最初の写真集『午後の最後の日射』ではキラキラしたものが並んでいる。素朴な作り、17年前の作り。
W : 島ごとのくくりはアジアのあり方を反映。
T : 写真は撮りに行かないと撮れない、という考え方があった。17年経ったことでそれが揺らいでいる。
W : 作品をどう撮るかを重要視している。
T : 写真を撮る行為というのは『traverse』までで、『da.gasita』から変わってきている。
W : 『da.gasita』から編集にすごく力を入れている。並びは最初の1枚目と最後を決める。冬青の社長と意見が分かれて、最終的には社長の意見に従った。つまり第三者の目を入れた。その結果、自然と季節順の並びになっていった。他人の手が入るってすごく大事と感じた。写真集には編集者、デザイナーが絶対必要。
T : 入口と出口が揺らいでいると、途中も決まらない。
T : ドキュメント性について。『prana』はちょっと違う。
W : 『da.gasita』がアメリカではノーモア・ノスタルジで切られた。北海道、東北では売れた。大阪以西ではダメだった。アメリカ=ノスタルジを捨てた国。写真はフロンティアでなくてはいけない、という考え。
T : モダニズムに毒されているのではない。
W : どちらがいいかではなく、違いがあるんだなと思った。あなたのコンテクストは何かと聞かれる。現代アートはキリスト今日の文脈だった。『prana』は自分の写真を説明する方便。
T : 自分が生まれ育ったメカニズムというものがある。
W : アルルで日本の写真の特集のタイトルがAnother Languageだった。独特の文脈を持っているので、日本人作家はまとめて特集されざるを得ない。
T : 写真はよければ褒めてもらえるものではなく、コンテクストの上から判断される。
W : 言葉は筋をつけるためのもの。選別、軸をつくるために言葉を使うが、言葉に左右されない。
T : 文章を読んで、気持ちよくだまされたい。
W : 『demain』、5冊目でようやくやりたいことができた。変わり目だなという実体験があった。
T : 写真集のあり方を考察するようなものを作るとは思わなかった。
W : ロバート・フランク『Story Lines』が頭にあった。アラーキーの「私小説」は「私のフィクション」でもある。 『demain』の黒い紙は印刷。アルバムの台紙をイメージ。
T : 一種の写真論、写真に対する重層的な試みがされている。

トークショーが終わってからの感想は、師匠がこんなにも戦略的に写真集を作っているものとは思わなかった。撮っているときにはそういう考えはなくても、まとめる際には「現代の写真」という流れのなかでいかに存在していくかが意識されている。まさに現役の作家だからできる仕事といえそうだ。






  
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by pprivateeye | 2017-01-14 23:31 | Comments(0)