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鈴木理策写真展「意識の流れ」

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2015年9月18日(金)

・鈴木理策写真展「意識の流れ」、東京オペラシティ・アートギャラリー
「海と山のあいだ」「水鏡」「White」「SAKURA」他、映像「火の記憶」「The Other Side of the Mirror」といったシリーズ。

テキストが興味深かった。
◯見るという行為に身をゆだねると、とりとめのない記憶やさまざまな意識が浮かんできて、やがてひとつのうねりのような感情をもたらすことがある。
◯カメラとは身体の外に知覚を成立させる驚くべき装置。
◯風景とそれを映す水面、両者は写真の中では同じものとしてある。
◯白い印画紙、白い雪のイメージ。その境界線は私達の側にある。
◯来年咲く桜を思い描く時、過去に出会った桜の記憶によるものなのに、私にはそれが未だ見ぬものに思われる。
◯人は写されたイメージに意味を見出そうとする。だが意味が生まれる以前の状態で見ることを示したい。

これは各シリーズごとに掲示されていたもの。
雪を撮った「White」は以前にも見たことがあるが、今回展示されていた作品は実験的というか挑戦的というか、えっと思うものだった。上の写真がそうだが12点の連作のうち何らかのイメージがあるものは4点だけで、残り8点はただ白いだけだ。ここでは雪の質感というものが排除されているので、その白い画面が雪そのものなのか、吹雪いて何も見えないのか、あるいはもしかして未露光の印画紙なのか、まったく判断ができない。そもそも写真の並びに順序があるのだろうか。
で、上に引用した言葉となる。“その境界線は私達の側にある” つまりそれを決めるのは見る人なのだと。

この作家のピントの合わせ方は独特だ。風景を撮影してもピントの合っている箇所は画面のほんの一部だけだ。8×10という大判で撮影しているにも関わらず狭いピントエリアは作者の意図を強く感じさせる。
以前に見た青森県立美術館を撮影した作品では、壁の端のほんの一部分にだけピントが合っていて、見る側の視線を強引に持っていこうとするような暴力的な印象すら受けた。
その後の作品ではそのような強引さはあまり感じないが、へー、ここにピントを合わせるんだ、といった少し常識的な思い込みを外すようなところがある。それはこういった大きな作品になって初めて感じることで、図録程度ではきれいな写真で済まされてしまいそうだ。
by pprivateeye | 2015-09-29 01:23

写真について、極私的な、 あれやこれや


by pprivateeye