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「写真経験」ということ

ほんの一部でロラン・バルト『明るい部屋』が話題になっていた。写真について思考した本だが、その内容について精読した本がある。まるで大学のゼミを受講しているような感じだ。

写真の存在論―ロラン・バルト『明るい部屋』の思想

荒金 直人 / 慶應義塾大学出版会



その中から一部を引用してみる。P.121~123。引用は、読みやすくなるように、書かれていることがわかりやすくなるように、段落を設けてみた。

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写真展などで一枚の見知らぬ写真の前に立つときのことを考えてみよう。

そのとき、われわれは何を感じ、何を経験するのか。往々にしてわれわれは困惑し、何とかその状況に対応しようとする。われわれはその写真の意味を探るだろう。あるいはその写真が与える経験の意味を探るだろう。その写真の芸術としての価値を考えるだろう。

日常生活の中で、われわれは、無意味な存在を正面から受け止めることに慣れていない。しかし、写真経験は、意味よりも存在を強調的に与えるので、存在自体を無意味なままに受け止めることに慣れていないわれわれは、その無意味さに耐えられず、どうすべきなのかわからない。

そこでわれわれは、その写真の意味や価値を理解しようとし、何としてもそれを解釈しようとする。

いつ、どこで、どのような文脈でその写真が撮られたのか、そこに写されているものは何なのか、その写真を撮った人の意図は何か、鑑賞者としての私に何が求められているのか、その写真について何が言えるのか、その写真のメッセージは何なのか、その美術的価値は、技術的価値は、歴史的価値は何なのか、その倫理的意味は、政治的意味は何なのか。

――しかし、これらの問いへの答えは、写真の中にはない。写真が与える存在の中に、これらの問いへの答えとなるようなものが、あらかじめ準備されているのではない。

写真経験は、少なくともその経験の最も特徴的な側面においては、われわれに存在を与え、われわれを存在へと向かわせる。それは、「何の段取りもなく」、つまり意味の伝達による存在の再構築という過程を経ることもなく、平然と存在の経験を与え、われわれを存在へと向かわせる。

そしてその存在自体は無意味なので(つまり「意味」とは別のものとして際立ったものなので)、存在の経験としてのその経験は、解釈しようのない(つまり無理やり解釈する以外にどうしようもない)無意味なものの経験なのである。

しかし、だからと言って、この無意味なものの経験がそれ自体無意味だとはかぎらない。それはおそらく、意味の秩序に回収されまいと意味に対抗するものの経験なのであり、意味の秩序に回収されまいと意味に対抗する経験なのである。
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「写真」について考えている人にはお勧めの本だと思う。
by pprivateeye | 2013-05-03 00:39

写真について、極私的な、 あれやこれや


by pprivateeye